死の舞踏
久しぶりに、「怖いもの」に追いかけられる夢を見た。その「怖いもの」は幾ら攻撃を加えても、どのような隠れ方をしても、確実に私を追いつめてくる。そして、いざ最後の瞬間…というところで目が覚め、ほっと息をついた。
フロイトの夢分析風に言うと、「何かに追いかけられる夢」も、無意識下の性的な欲求からなどというように分類されてしまうのであろうが、今日はふと別の事を考えた。
どんな手だてを尽くそうとも、確実に私たちを追いつめ、最終的に破滅をもたらす「怖いもの」、それはまさしく我々の世界における「死」そのものではないだろうか。我々は、まさに覚めることのない「怖い夢」の中で生きているのである。普段は忙しい日々の中で、それに気付くことはほとんどないが、一旦その逃れ得ぬ「死の宿命」に思いが至ってしまうと、言いようのない恐怖(どちらかというと不安感か)に心の蔵を鷲掴みにされる心持ちとなる。自らの思考、感覚、記憶、人との関係、存在が根こそぎ消失してしまう事を想像し、平気でいられる人は果たしているだろうか。最近では、この死に対する恐怖感から逃れられず神経症になることを死恐怖症(タナトフォビア)と呼ぶことすらあるらしい。
それでは、この万人に訪れる「逃れ得ぬ死」に対する恐怖を克服するためには如何にすべきか。一つの答えは宗教であろう。、死後の幸福な世界などの装置を用意した幾多の宗教が生まれ、今でも多くの信徒を集めていることは説明するまでもないだろう。
私はどのように考えているか…、を書こうとしたら時間切れなのでまた続く。